そうか葬儀場じゃなくてお寺でもお葬式やるよね、そりゃ当たり前だよねと思いながら、歩きながらその光景をぼんやり眺める。
昼下がりの優しい陽の光が、黒の背中達を包み込む。顔が全く見えないのになんだか哀しさが漂う。どこかの誰か知らない人の死体があそこにあり、こんな麗らかな午後に最期のお別れをしているんだと思うと、なんだか不思議だ。この世界では毎日どこかの誰かが死んで、毎日どこかの誰かが哀しんでるのだ。
そのまま通り過ぎたら、後ろから高らかにクラクション音が鳴った。お別れの合図だ。
ファーーーーーー・・・・
今から火葬場へ向かうのだろう。
もう通り過ぎたので見えないけど、黒の背中達がより一層喪に伏してるのが見えるようだ。
そしてその音だけど、ああなんだか聴いたことがある、と思って胸が苦しくなった。
まだ出逢ったのは少ないけれど、身近な人との別れの時の哀しい感情がこの音に紐付けられて記憶されている。
あと、生活音に紛れてて分からなかったけど、近所で鳴っているこの「お別れの音」を、旅が終わって最近ずっと家にいる今はもしかして毎日聴いてるかもしれないという事実に気付く。
・・・ァーーーーーン
天高く馬肥ゆる秋、なんていうけれど、高い秋の空にクラクションが響いて、そして溶けていった。
これからこの音をウッカリ認識してしまうと、どこかの誰かのお別れの音だと分かってしまうのか。
故人には申し訳ない気もするが、こんな哀しい音に毎日チューニングされてしまうのは、よろしくない気もする。
ということで、そのクラクション音を忘れよう忘れようと思うのだけど、忘れようとするたびあの音が自分の中で響いてしまって、困る。