2017年1月10日火曜日

魔法使いのスティック



この年になると、皆一度くらいは精神を病む経験をしている。
ということで、もう時効だろうから書くけれど、中学のとき自殺未遂して入院したことがある。

数日経ってやっと歩けるようになって、病院の休憩ルームみたいなとこでボーッとしていた。ちょうど西日が差し込む夕暮れ時だった。同じく入院しているっぽい、パジャマ姿のおじさんがフラフラと近づいてきた。

おじさんは髪がぐじゃぐじゃで歯がぼろぼろで、特に上の前歯は綺麗に抜けて、犬歯だけが残っている状態だ。挙動不審だったし、薬物中毒とか何かはわからないけれど、精神的に病み切っているような感じだった。いい大人がボロボロになっているのを見て、何やってんだこの人は、とぼんやり思った。自分だって精神を病んで腕も足も傷だらけで自殺未遂までしたくせに、酷いものである。

おじさんは、スティックパンの袋を抱えていた。スティックパンとは、皆一度は口に入れたことはあるだろう。甘くて柔らかい棒状の安っぽい、あのパンだ。
そうして、震える手でスティックパンをひとつとりだし、私に差し出してきた。

どうしようかと思ったが、中学生の私は断る理由を思い浮かべることができず、ありがとうございますと、そのスティックパンを受け取った。
おじさんが私を見つめてくる。何を考えてるのか分からない目で。私は口の横を引きつらせながら、おそるおそるもらったスティックパンを口に入れた。

スティックパンは、普通のスティックパンだった。
甘くて柔らかいスティックパンだった。口の中の水分を奪われながら、もちゃもちゃと咀嚼する。

食べたことを示すためにおじさんを見ると、こちらのことなんてどうでも良さげにボンヤリしていた。そして虚空を見つめながらポツリとつぶやいた。

「嫌になるよねぇ」

そしておじさんもスティックパンを取り出し、おもむろに食べようとした。

ふと、おじさんは前歯がないのにどうやって噛むのだろうと、失礼極まりない疑問が浮かんだ。おじさんの前歯の場所は、ぽっかりと空いた暗闇があるだけだ。
その空洞にスティックパンが吸い寄せられていく様を、無遠慮にもジィッと見つめる。

すると、驚くべきことが起きた。

本来なら前歯があるスペースに、スティックパンが、それはそれは見事にパスンとはまった。無くなった前歯と、スティックパンの横の長さはぴったり同じだった。
そして残った犬歯に支えられ、口の奥にスルスルと長いスティックパンが飲み込まれていくのだ。それはまるで手品のように。

見ていると、なにか正体不明の感情達がワッと胸に込み上がってくるのを感じた。

ひとつは感嘆だ。歯抜けのぼろぼろのおじさんに、機能美の類の美しさを感じたのだった。
歯がないからこそ選ばれたかもしれない、柔らかく食べやすいスティックパン。でももしかしてむしろ逆で、スティックパンの為に歯を抜いたのではと錯覚するくらい、誰にも到達できないような美しい食べ方だった。
そして、その感情が通り過ぎたあと、最後に残ったのは、強烈な寂しさだった。

私もこの人も、ここで何しているんだろう。


一本、また一本と、おじさんは自らのスティックパン・スペースにスティックパンをはめて、やはりスルスルと飲むように食べる。
窓から差し込む西日が、おじさんと私とスティックパンをオレンジ色に照らす。その一方で、黒々とした影が病院の床に長く伸びる。伸びる。
私はその伸びた影に杭を打たれたかのように、微動だにできずにいた。

魔法のようなおじさんのスティックパン喰いを凝視していると、物欲しがっているように思われたのか、おじさんは震える手でもう一本スティックパンを差し出してきた。
目の前に、おじさんの前歯のところが、スティックパン・スペースが見えた。その奥は黒い影が広がっていて、何も見えなかった。

「もうお腹がいっぱいなので大丈夫です」

私はそう言って、逃げるように自分の病室に戻ってしまった。今さらだけどとても怖くなっていた。おじさんにというか、その時に初めて「死」を感じた気がしたのだ。自殺未遂をしても死というのが良く分からなかったのに、同じようにボロボロの人に出会って、初めて自分の立っている場所がギリギリ崖っぷちだったということに気付いたのだ

スティックパンおじさんには二度と会うことはなく、わたしは数日後に退院した。
それからまぁまぁいろいろいろいろあったりもして、それはいずれどこかで書くかもしれないけれど、とりあえずもう自殺しようなんて馬鹿な真似は二度としないでおこうと今に至っている。




たまに、スティックパンを無性に食べたくなって買ってしまう。そして、スティックパンおじさんを思い出すのだ。

あの時あの人はボロボロだったけど、幸せになれただろうか。
今もスティックパン・スペースにスティックパンをはめて、食べてるんだろうか。
…それとも、もう死んじゃったかな。



私はというと、今日も不器用に生き続けている。
あの頃みたいに「もう消えてしまいたい」と思うことは勿論沢山あるけれど、なんというか、死ぬまで生きようと決めたのだ。だから生きるのだ。

買ってきた安いスティックパンをもちゃもちゃと咀嚼する。
スティックパンは、甘くて柔らかくて、なんだか泣きそうな味がする。