2016年1月9日土曜日

じっちゃんのちんちん

私は祖父のことを「じっちゃん」、祖母のことを「あーちゃん」と呼んでいる。そう呼ぶようになったのは、いつからか分からない。
物心ついてからじっちゃんはずっと「じっちゃん」で、いつもヤニ臭い黄ばんだ引き戸の奥でプカプカタバコを吹かしていた。
あーちゃんもずっと「あーちゃん」で、自由奔放ながらもじっちゃんの世話をずっと焼いていた。

色んなところで書いているが、私の母は幼い頃に亡くなっており、また父も再婚して出ていっていたので、実質この祖父母の家で育ったようなものだった。


祖母であるあーちゃんが母親の代わりだった。そして祖父であるじっちゃんは父親の代わり…ということは無く、特に今まで怒られたことも褒められたこともない。じっちゃんは、あくまでもじっちゃんという立ち位置の家族だった。


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『じっちゃんが倒れた』
 
仕事中に父からラインを貰った。ちょうど薬の配達中で外へ出ていたので父へ電話してみた。
「倒れたって、どんな感じなん?」
「ちょっとヤバい」
ちょっとヤバい。それは一体どのくらいを指すのだろうか。
「運ばれる時に心臓マッサージされてたらしい」
それは、ちょっと、ヤバいなぁ…と愕然としながら電話を切った。

その日は薬局が大変忙しい日だったけど、もういいやと思って無理矢理早退した。飛び乗った電車の中で、父からの新しいラインの通知が入った。
 
『大動脈瘤が破裂したらしい』
 
どんな症状なのだろうと思って「大動脈瘤 破裂」で検索すると「ショック死」という言葉がドーンと表示され、私はそれ以上調べることを辞めた。

乗っている阪急電車が高架を渡る音がして、窓の外を眺めるとちょうど淀川の上だった。ぼんやり電車の揺れを感じながら、じっちゃんのことを思い出してた。

私は小さい頃ひとりでは眠れなかった。あーちゃんと、私と、じっちゃんと、三人で川の字になって寝ていた。
夜が怖くて寂しくて、寝る前に私はよく愚図っていた。そんな時は、あーちゃんが左手を、じっちゃんが右手を繋いでくれて、そうしてやっと落ち着いて寝ることができた。そんな何十年も昔の微笑ましいエピソードがぽっと浮かんできて、もしかしてじっちゃん死ぬのかな、と改めて考えたら涙がサラサラと流れた。


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川西能勢口駅に到着して、弟夫婦と合流し病院へ向かった。

「どうなってんの?」
と作業着姿の弟に聞くと

「俺も良く分からんけど、とりあえず無理矢理帰ってきた」
と言って鼻をすすった。

車内は無言となって、私はナビの画面で流れているDVDをぼんやりと観た。3代目JソウルブラザーズのDVDだった。この話も色んなところでしているけど、弟は3代目Jソウルブラザーズのオーディションを受けたことがある。この実の弟はどんだけJソウルブラザーズが好きやねんと心の中で突っ込みながら、その映像を眺めていた。カメラが動いて、客席で涙を流すファン達の顔がアップで抜かれた。DVDの中でも、ちょうど感動のラストシーンのようだった。

病院に着いて、家族が集中治療室の前で集まっている所へ近寄った。あーちゃんが宙を見つめてボンヤリしている。

「じっちゃんは?処置中?」
弟が聞くと、叔父が

「いや、処置はもう終わった。あかんかった。」
とポツリと言った。

「そっか」
弟がポロポロッと涙を流した。普段自信たっぷりの弟のその姿を見ていられなくなって、私は病院の外へ出た。
正面玄関だったので病院に見舞いに来た人達に悪いなぁと思ったけど、どうにもこうにも何だか涙がこみ上げてきて、ウェウェと声を上げて泣いた。

じっちゃんが、死んだ。

霊安室に移動した。霊安室は倉庫みたいな見た目だった。冷蔵庫みたいに寒く、下水のパイプみたいなのが露出しており、時折トイレの水が流れる音が響く酷い場所だった。じっちゃんはその真ん中で寝かされていた。
顔にかかる白い布をチラと捲ってみると、いつものじっちゃんがいた。顔色は良く、死んでるようには見えない。口をパカンと開けていて、なんだか滑稽にも見える。つんつんと頰っぺたをつつくと、まだその体は暖かった。

あーちゃんは慌ててそのまま飛び出してきたようで薄着である。肩に手を置くと、死んだじっちゃんより生きているあーちゃんの方が冷たいような感じがした。
「寒くないん?これ着とき」
そう言って私は着ているコートを脱いで掛けた。
「ええよ、みわも寒いやろ」
「私は暑いから大丈夫」
嘘だったけど、無理矢理コートを着させた。あーちゃんの肩はとても小さく、私のコートでも子供が着るみたいにブカブカになった。


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じっちゃんは、鹿児島生まれ鹿児島育ち。
頑固で、一度決めたことは曲げない。
亭主関白で、じっちゃんの身の回りのことはあーちゃんが全てしていた。
まさに九州男児を体現したような人だった。

そしてじっちゃんは、酷い男だった。
じっちゃんは俗に言う「ヤリチン」だった。

じっちゃんには愛人が居た。じっちゃんは小さなアルマイト工場を経営していたのだけど(ちなみに途中で自己破産した) その工場の事務員に手を出していたのだ。愛人はいわゆる後家、未亡人だったのだけど、愛人に残されていた子供達も大層可愛がり、
「自分の娘や息子だと思っている」
などと周囲に告げていたことは、祖母を酷く苦しめた。

しかも、晩年にはなんと祖母の実姉にも手を出していたことが判明した。そのことが切っ掛けでは無いかもしれないが、そのことを決め手として、祖母は唯一の血の繋がった姉妹である姉と縁を切っている。

非人道的なそれらのことを、ほんの5年程前まで、私は全く知らなかった。孫には教えないようにしていたのかもしれない。
確かにその事実を聞いてから、どうしても今までのような普通の爺ちゃんとしては思えなくなっていた。自身が婆ちゃんっ子だから、というのもあったのだろうけど、女として許せない、という気持ちもかなりあった。
 
とはいえ、死んでしまうとなると話は別である。
 
はじめて知ったが、家族が死ぬと、とても悲しい。


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家に帰ってきて、係りの人がじっちゃんを運んできた。死後硬直でその体は丸太の様に真っ直ぐになっており、白い布に包まれた足がガンと引き戸に引っかかった。

葬式では悲しんでいる暇などない、とは良く言う話だけど、本当にその通りだった。葬式の形式、喪主決め、お坊さんの手配やお包み、食事や供花…など決める事が山ほどあって、この日は実感も湧かず皆で淡々と決めていった。

「遺影はありますか?」
「あるで、死ぬ前にじっちゃんと遺影を撮りに行ってん」
 
あーちゃんが言って取り出したのは、腕を組みバッチリとポーズをキメたじっちゃんの写真だった。写真スタジオに撮りに行ったようだった。
 
「へえ!こんなの撮ってたんや」
「じっちゃん最初は嫌がってたけど、いざ死ぬときに変な写真使われたら嫌やろって話したら納得してな…。これ撮った後、あーちゃんの友達の中で遺影撮るのが流行ったんやで」
 
写真を見ながらあーちゃんは少し微笑んだ。じっちゃんは珍しく笑顔で、とても良い写真だと思った。


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日本での葬儀のシステムは凄いなぁと思う。「死」というものを理解していて、死んだ人も生き残った人も納得出来るように手順を踏んでいる。
亡くなってからすぐ、その家族は死への実感が湧かない。ショックで取り乱したり呆然とするが、家に連れて帰って一晩過ごすことで気持ちを落ち着けることができる。その後も、納棺、お通夜、告別式、葬儀式、出棺、火葬、収骨、還骨法要…時間をかけ、サヨナライベントをこなしていく。その間ずっと故人のことを想いながら、徐々にその死を受け入れて行く。

葬儀が終わったあとも、初七日、四十九日と漸減的に法事が続く。死を受け入れた後は、その死と共に生きていくみたいだと思った。


明けてお通夜の日、変に責任感が強い私は、早帰りだけ申し出て職場に出勤した。さあいざ帰ろうと思った時に、トラブルで予定よりも30分程遅くなった。
喪服を抱えて梅田の街を小走りしていたら、ああなんでこんな事を、仕事って死よりも大事なのか、と情けなくて涙が出てきた。

結局お通夜には遅刻した。タクシーで会場に乗り付けると、もう読経の途中だった。受付には誰も居ない。会場に入ると、あまりにも供花の数が多く知らない人ばかりだったので、やばい間違えたかも…と思って目を薄めて遺影を眺めた。そしたらそこにはじっちゃんが居たので、少しホッとして焼香の列に並んだ。
親族代表として並んでいた、あーちゃんが目に入った。その姿はあまりにも小さく、今にも倒れそうなくらい儚く、それを見てまた泣いた。

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お通夜の日は、文字通り夜通し故人に付き添って、交代で線香に火をつける。とは言っても今は12時間持つ渦巻線香という便利なものがあるので、別にずっと起きておく必要はない。

会食を食べ酒を飲んで、良いことも悪いことも、思い出してはその場に居る人と共有する。
ああ、そういう人だったねと笑ったり泣いたりする。故人を思い出すその時間こそが、弔いというものなのかもしれない。

お通夜の日、あーちゃんはずっと、じっちゃんとのことを思い出して話し続けた。

―ただしその内容は、ほぼじっちゃんの悪口だった。

「じっちゃんはプライドが高くて、工場始める前の勤め人を一週間で辞めたりしてなぁ。ほんでその給料、自分が行くのが嫌やからってあーちゃんに貰いに行かせたりしたんやで。どの面下げて行けばええねんって思ったわ」

「そうなんや、酷いなぁ…」
 

「工場を建ててから、社員旅行へ行くってなったら、あのS(愛人)も社員やから来る訳やんか。でもあーちゃんが行かんわけにはいかんやろ。じっちゃん→S→あーちゃんの席順で座らせられたりしてな。じっちゃんは女に囲まれて自慢気やったんかもしれへんけど、胸糞悪くてたまらんかった。」

 
「それは辛かったなぁ、よう我慢したなぁ…」

「姉と寝た、なんて言うんやで。しかも二人で共謀して、あーちゃんのことを責めるようなこと言ってきて。もうあのオバハンとは、縁切ったわ。」

「いやー、じっちゃん、クズやなぁ…よう今まで一緒に居たなぁ…」

 
本当に我が祖父ながら、クズである。百歩譲って、人間なので浮気心を持つのは分かる。だがそれは決して伴侶に悟られるべきではないと思うし、自分から告げるなんて言語道断だ。まして相手が妻の実姉なんてのは非人道的過ぎる。
ああ、我が家で殺人事件とか起きなくて良かった。

「子供育てたら絶対家出たる、って思ってたけど、子供育てきったらそんな気力もなくなってもうたわ」

「なんで、じっちゃんはあーちゃんにそういうこと話したり、分かるようにしたんやろね?」

「知らんわ。俺は凄いって自慢したかったんちゃうの?」

「ヤキモチ妬かせたかったのかな?」

「勝手過ぎるわ、そんなん…」

そう言って、あーちゃんは一点を見つめた。


じっちゃんとあーちゃんの間にあったものは、もはや愛では無かっただろう。

恋とか愛とかを越えて、嫉妬とか悲しみとか憎しみとかを越えて、何もかもを越えてグチャグチャに混ざり合って太く固くなった情。ビッシリと根を張る太い巨木のような情。そう言った強い根性がないと、誰かと添い遂げるのは難しいのかもしれない。
 
私は果たして、そんな風に誰かと一緒に居続けることが出来るのだろうかと、半分寝た頭で思いながら、あーちゃんの話にひたすら相槌を打っていた。

 
「でもなぁ、思ってん。昨日、あーちゃんが昼寝してる側にじっちゃんが来て横になってん。じっちゃんも昼寝しとるわー思ってそのまま一緒に寝てた。昼ご飯食べようと思って起こしたら、もうそのまま目ぇ開けへんかった。でも、もしかしてあれは、最後に側に来たかったんかなって思うねん…」

「そうかもね…」

 
いつもの実家の、いつもの居間で、2人が昼寝している姿を思い出した。日光が暖かく射し込むそれは、実家に帰ると良く見る光景で、いつまでも有ると思ってたけど、もう見ることは無いのかと思うとまた涙が出てきた。
あーあと思って目を瞑り、頭の中の2人の横で私も寝転ぶ想像をした。あーちゃんはまだ話を続けてたけど、いつの間にかそのまま、私は眠りに落ちていた。


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日が明けて、お葬式はとてもしんどかった。泣きすぎだったり二日酔いだったり寝不足だったりして、お坊さんの読経を聞きながら少しウトウトしてしまったりした。ハッとして目を覚ますと、横の兄も同じ様にウトウトしていて、兄弟かよと思った。

焼香も全て終わり、棺桶を開けて、献花をすることになった。会場の人が沢山の供花を適度な長さに切り、ひとりひとりに配っていく。

最初にあーちゃんが近寄り、じっちゃんの顔の側に花を置いた。昨日はあんなに恨み辛みを言っていたのに、じっちゃんの顔を見ると、あーちゃんは目をショボショボさせて泣いた。
「みんな来てくれたで、良かったなぁ」
そんなことを言いながら、じっちゃんの頬を撫でた。それを見て、さっきまで居眠りしていたのに、私もまた泣いてしまった。昨日から要所要所で泣いて目が痛い。葬式は、長いし泣き疲れる。
花でいっぱいになった棺の蓋が閉められた。あーちゃんの鼻をすする音が響く中、合掌をした。
 

 
その後、テレビでしか聞いたことがないクラクションの音が鳴り響き、じっちゃんを乗せた車が火葬場に向かった。叔父の車に乗り込み、その後ろについていった。行きすがら、車窓から見た空は雲ひとつない青空だった。


火葬場に着き、ガラガラと棺が運ばれて来た。その周りに、皆が集まる。
いよいよお別れ、という感じがした。
あーちゃんは、もう一人で立っていられなかった。叔父と、兄に支えられて何とか立たされているような状態だった。

 
それでは故人様が参られますお見送りください、とか何とか係りの人が言って、
機械に乗せられて棺が釜の奥まで運ばれた。その様子は無機質で容赦なくて、もう死んでいるんだけど、何だか恐ろしい機械に今から惨殺されるのを見せられているような、そんな気分になった。
 
あーちゃんも居てもたってもいられなくなったのか、
「お父さん!!」
と泣き叫んだ。
 
重い重い扉が、閉まった。
閉まったと同時に、中からエレベーターが昇るような、モーターの回転数が急上昇するような機械音がした。この音、トラウマになりそうだと思った。

「逝ってもうた」
あーちゃんがポツリと呟いた。


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作業着を着た人が、ガラガラと遺骨が乗った台を事務的に引き出してくる。「綺麗に焼けましたね」みたいなことを言ったので、さっきから何なんだもっと言い方は無いのかよと思った。

でも焼き上がった後は、悲しみに浸るというよりか、何だか妙に気持ちが落ち着いていた。肉体とは不思議なものだ。生の顔を見て体があるのを見ていた時は、死んでいるけど何処かまだ生きてるような気持ちだった。けど今残った白い骨を見たら、ああ、死んだのだなぁと妙に納得出来るものがあった。

あーちゃんが近寄る。皆が、あーちゃんが一番はじめに骨を拾うよう促した。

「足から徐々に上に上がっていって、最後に頭を入れることになります。」

あーちゃんが足の骨を箸でつまんで入れた。その後、私も膝くらいの骨を入れた。



あーちゃんが、ふと、腰あたりの骨を入れてる時に手を止めてこう呟いた。
 
「じっちゃんのちんちん、どれやろ。入れてあげな」
 
父が返した。
 
「あーちゃん、ちんちんには、骨が無いんやで」

「そうか。ちんちんには、骨が無いんか…」
 
そう小さく呟いて、あーちゃんはまた黙々と骨を拾った。
皆、黙々と骨を拾った。

 
〜〜〜〜〜

 
じっちゃんは死んだ。60余年連れ添った嫁の側で死んだ。
 
女を苦しませたその肉体は燃えた。
恋や愛や、嫉妬や悲しみや憎しみも燃えた。
ちんちんも燃えた。残ったのは骨だけだった。

でも、ちんちんは、
3人の子供と、7人の孫と、1人のひ孫までを、しっかりこの世に残したのだった。
 


 


おしまい。